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いのちの土 (2013) 1/3

「いのちの土」  栗田宏一


「『世界の多様性』をテーマに、足もとの土のありのままの美しさ、尊さをアートを通して伝えていく。」と言い出してから20年あまり。アトリエ周辺に散らばっていた言葉を拾い集めてみることにしました。そうは言っても、記録し始めた今でもあまり気乗りしていないのは確かです。作家が言葉を発することは自分のアートの領域を狭めることになりかねません。作品に接する方々のイメージの翼をもぎ取ってしまうのではないかと気がかりでもあります。しかし、制作にまつわる諸々の思いや考えを頭の中に溜めておくことは、作品を倉庫の中にしまい込んでいるのと同じかもしれません。ここでは、アートが作家を離れて社会のものになっていくきっかけになることを期待して前向きに考えることにしましょう。
子供の頃から文章は苦手で、推敲すればするほど固まったキャラメルをつないでいくような惨めな結果になります。ここでは、ある架空の聞き手を想定して、その人に思いを伝えるために「書く」のではなく「話して」いこうと思います。


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この地球上のあちこちでは同時にさまざまなことが起こり、それぞれが複雑に絡み合って歴史が紡ぎ出されていきます。この壮大な世界の歴史を学ぼうとする時、私たちはあまりの複雑さに唖然として投げ出してしまいたくなります。平面的な年表に表すには限界があります。かといってすべてを立体的に学ぶには一生あっても足りません。図書館の本を読み尽くすこともできません。ひとりの人間の歴史もそれと同じで、人との出会い、脳のなかで同時に考えているさまざまなこと、経験、すべてが複雑に絡み合いながら進行していきます。とても語り尽くせるものではありません。
しかし、アートという表現はそれらを一瞬のうちに伝えてくれる手段でもあります。一目見ただけで、一瞬その場に立っただけで、地球創世記からの時間を感じられる可能性だってあります。しかも、言葉による説明が必要ない場合が多いので国籍、老若男女も問いません。もちろん、見る人それぞれによって感じ方が違います。それは私たち人類にとって誇るべき特質で、それぞれのやり方で世界と接することができるとも言えます。アートをきっかけにして個人のDNAが宇宙の時間と交差するのです。


誰にでも父と母がいます。一世代前には祖父と祖母。すなわち2人の祖父と2人の祖母がいます。そのまたひと世代前には、と計算していくと、10世代前には1000人以上の祖父と祖母がいたことになります。もちろん、だからといって5000年前に数億人の祖父と祖母がいたわけではありません。これはひとつのトリックのようなもので、私にはうまく説明することができません。ここで何を言いたいかというと、その中のひとりでも欠けていたらいまの自分は存在しないという事実です。途方もない血の連なりが自分の中に生きています。一人一人の存在には理由があるのです。
5000年前を振り返ることによって、5000年後の世界が見えてきます。その中間地点に立っている自分はほんの些細な存在ですが、5000年後にとっては必要な存在です。もちろん自分の血をそのまま未来につなぐという意味もありますが、たとえそれができなくとも自分の思いの種子を人々の心の中に蒔くことでつながっていきます。子供たちを育む環境をサポートすることでも可能です。できることなら5000年間つないできたものをここで破壊してしまうのではなく、できるだけいい形で未来に伝えていくことがいまの自分たちが意識してやるべき仕事です。アートはそのために役立つことができます。


では、ここで言うアートとは何なのか。いきなり本論に入ってしまいそうな勢いですが、ある程度の定義は必要でしょう。もちろん人によって考えが違って当然ですし、反論も多いでしょう。
かつては絵画や彫刻がイコール、アートであると言われていたように思います。しかし、本当にそうでしょうか。確かにアートに至っているといっていい絵画や彫刻も数多くありますが、中には単なる物体もしくは死体にしか見えないものもあります。アートと言われるからには、作品が社会の中で呼吸していることがもっとも重要なことであると私は考えます。作者がそのことを意識して制作したか否かを見落としてはなりません。作品はそれを見る人の目を通過して初めてアートとなります。作者がこの世を去ってからも作品が呼吸していること、これは容易なことではありません。
これだけ多種多様な表現が現れている現代だからこそ、作家には強い覚悟が必要です。どんなに思考し苦労して制作したとしても、それが単なる物体でしかないとしたら哀れな話です。自己を表現する意識を思い切って脱ぎ捨てる必要があるのです。自分はあくまでも手や足を貸しているにすぎないと素直に思えるようになって、ようやくアートが生まれ出る環境が整うように思います。あれこれ理屈をこねて説明するのではなく、ありのままを提示する勇気。
ここでは作品を見た人の心の奥深くに何かが注がれるその瞬間のことを「アート」と呼んでみましょう。


日本という島に日本人として生まれ、育ってきました。しかし、日本人という定義のなんと曖昧なことでしょう。確かに日本語という誇らしい言葉をしゃべり、四季折々の美しさの中で生きています。アニミズム、神道、仏教の入り交じった宗教観に包まれ、知らず知らずのうちに自然界に対する畏敬の念が育まれています。ひとくくりにできないほどいろんな顔があり、文化があります。2000キロにもおよぶ列島にはきれいなグラデーションを成して文化の移ろいが見られます。その面白さを「風土」という言葉が一言で表しています。その土地に生きる人々が、日々さらされている「風」や、日々踏みしめている「土」に影響を受けないはずがありません。
もちろん、同じ風に吹かれ、同じ土を踏んでいたならば、みんな同じ考え方になったりするかというとそんなわけはありません。その相違はおそらくそれぞれの血の微妙な相違から来ているのではないでしょうか。例えば、私は山梨県に生まれましたが、4人の祖父母の由来を探っただけで一筋縄で語れないことがわかります。父方祖父は宮古島の出身で明らかに南島の血筋です。外来船の寄港地であったことからポルトガルやアラブの血が混じっている可能性があります。父方祖母は由来が不明です。しかし、その顔立ちからすると半島系の血が強いのではないかと想像できます。母方祖父は基本的には数千年来の縄文人の末裔なのですが、中世の時代に乱入してきた武士の生臭さも兼ね備えています。母方祖母も顔立ちだけ見ると縄文系ですが、家筋を追っていくと大陸系となりそうです。日本人の複雑さが私の中に凝縮しています。


「風土」という言葉が出ましたが、その響きからは自然界の只中に立ちすくむ人間の姿が浮かび上がります。人間の存在感ががっちり組み込まれた言葉です。自分たち人間が自然界の一員であるという事実はちょっと考えればわかることですが、金銭を中心に動いている社会の中に埋もれていると忘れてしまいがちです。我を振り返ろうとする時にアートはいいきっかけを与えてくれます。それはアートが非日常の姿をとっているからでもあるでしょう。
では、どうして自然界の一員と認識することが必要なのか。アートの力を借りてまで。胸に手を当ててみればわかることですが、人間はあまりに自然界から離れ、傲慢になってしまっています。あたかも自然界を征服できるかのような錯覚にとらえられています。原子力発電所を制御できなくなった時の慌てぶりを見ればわかることです。もう少し謙虚になるべきなのです。「自分が自然界の一員である」と認識することは悪循環から抜け出すいいきっかけになってくれます。自然界を傷つけることは自分自身を傷つけることと同じです。私たちは決して離れられない仲なのです。どちらかを征服したり、おとしめたりする仲ではないのです。「自然との共存」という時の「自然」には自分も入っていなければいけないわけです。「風土」という言葉がそれを的確に表し、「アート」は目覚めのきっかけを作ってくれます。


自然界との一体感。その感じ方は人それぞれですがいくつかわかりやすい方法があります。その経験をもとにイメージトレーニングする事もできます。とにかく自分の肉体を消去して透明人間になってしまうのです。そうする事によって草原に吹く風が自分の中を吹き抜けていきます。自分の中を川が流れていきます。無重力状態で大地に横たわれるのです。満天の星空の中を自分の目玉だけがさまよっているような感覚。森の中、海の中も自由自在です。
この感覚を具体的にわかりやすい形で表すのがアーティストの仕事であり、腕の見せ所です。たとえある人物の肖像画であったとしても、その人物を自然界の一員ととらえ、敬っているならばその感覚が画面に表れます。逆にどんなにハイテクなメディアを用いてみたところで作家の自己をぶつけるだけの作品だったら見る人の感情移入する隙間はありません。作家の死後も呼吸を続けている作品とはその作家の自然感によるのだと思います。人の数だけ表現方法、手段が異なり、それを受け取る側も人の数だけ感じ方が違う。表現上の基本姿勢さえしっかりしていれば何をどう表現してもかまいません。もちろん、どう受け取ってもかまいません。アートはなんて自由なんでしょう。


現代アートはとってもわかりにくい。ほんと、同感です。もともと、アートをわかる、すなわち理解する必要などなく、ただ感じ、自分の中に落とし込めばいいのだけれど、中にはどう感じていいのかすらわからないものもあります。これほど多様で不可解なアートが生れ出てくるという事は、私たちが生きる現代がそれだけややこしくなっている証です。アートは時代を映し出す鏡だからです。
人間が自然界の一員であるという言い方をするならば、本来は手つかずの森の中で深呼吸しているだけで十分に幸せで、それ以上何かを見たり考えたりする必要はないはずです。しかし、この数千年の歴史の中で背負ってしまったもの、失ってしまったものは大きく、人間自身もややこしくなってしまいました。もちろん、そのややこしさから優れた文化が生まれたのも事実です。森の中で深呼吸している自分、お寺の庭の、作られた自然の中でほっとしている自分、その両方ともが私たちの姿です。アートが手助けできるのはその後者。まったくの自然だけでは癒されないものが私たちの中にあるのです。


表現をしていく上でオリジナリティーは非常に重要です。他の誰もやっていないこと、誰にも真似のできないこと。しかし、それを探し出すのは簡単ではありません。もしかしたら美術の歴史を勉強すればするほど身動きできなくなってしまうかもしれません。それほどに、ありとあらゆる手法、手段は尽くされています。しかし、次々と新しいアーティストが現れて、思いがけない表現を見せてくれるのも事実です。
簡単に言ってしまえば、自分自身をとらえることができ、そのまま引っ張り出すことができるならば、それは誰にも真似のできない表現となっているはずです。もちろん、自分自身になることがもっとも難しく、どんな宗教においても最終の目標地点です。では、どうすれば自分自身をとらえることができるのか。逆説的な言い方になりますが、おそらくは余分なものを捨て去ることが唯一の方法だと思います。どこで拾ってしまったかわからない先入観、凝り固まった固定概念、それらを捨て去り身軽になることです。簡単なことではありませんが、方法はいくらでもあります。まず、旅をすることです。知らない土地を歩いて何かを見たり、聞いたりすることは、間違った認識を改め、捨て去ることでもあります。何かを得るための旅ではなく、何かを捨てるための旅。そして、本を読む事。知識を得るためではなく、固定概念を溶解させるための読書。脳みそのダイエットが自分自身をとらえるきっかけになります。


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by soil_library | 2006-08-02 00:52 | TEXT
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